ほうとう 由来から調理法まで

● ほうとうとは
 仏教などとともに中国から伝わった唐菓子の一種「ぶと・」が他の「はくとん・」「こんとん・」「さくべい・索餅」などと混同、変化して簡略化し、帽広の麺状の独自の料理となったもの、と思われる。
 日本の麺料理のもとになったと考えられる。
 同じ物を上州では中国から伝えられた調理法を表す「切り込み」が転じて「おっきりこみ」と言うようになる。
 もう一説に、現在のギョウザ状の物であった「ぶと」を煮て食す方法を「煮ぶと」と言い、それが、「煮ぼと」「煮ぼうとう」と変化し、さらに「煮」を取り「ぼうとう」の濁音が清音化され、「ほうとう」になった、とも言われる。さらに「波字多字」という万葉ガナ風の当て字でかなり古くから見られることから、中国から「ホウトウ」と発音する別の物の固有名詞に日本風に漢字を当てて記したものと「ぶと」などが混同されたもの、との説もある。
● なぜ新田に「ほうとう」が?
 「ぶと」などの食文化が中国から伝えられた時代では、それは「最もトレンディーな食のファッション」であった。
 宮中を中心に活動する貴族・公家たちはこれを楽しんだ。しかし、日本の武家や庶民は米食が価値観の中心であったため、いくら麦の生産を奨励しても定着しなかった。食べ方も知らないし、穀粉技術も無かったのである。
 その結果、麦粉食文化として伝えられた「ぶと」などは代用として米粉に置き換えられ、また他のものと混同されながら徐々に武家や庶民の間に寺の供物などとしてその姿を現すようになった。
 新田氏はもともと大将軍八幡太郎義家公の子孫で、清和源氏姓であった。一族は代々宮中で「大炊介」(おおいのすけ)等の役目を担っていた。
 「大炊介」とは宮中での食料の調達や、料理やもてなしを担当する次官の役目。そのため一族は宮中での麦の食しかたや必要性は知っていたと思われ、新田氏初代の「義重」が、当時の理想郷として宮中直接の領地とされていた「にいた(爾比多)」の地を、新田(しんでん)を開墾して食料を増産する役目を表す「新田」(にった)を氏名(うじめい)として与えられ、たちまちその地の利(夏高温多湿・冬乾燥し気温低い、ただし雪降らず。
 川、泉が多く水は豊かだが、土地の水はけが良い)を生かして米はもちろん、宮中が必要としている「麦」を生産。二毛作を実行し繁栄のもととなった。
 この麦の生産は様々な効果をもたらした。宮中の食文化を代用の米の粉でなく、本物の料理を提供し、評価されたばかりか、麦に牛馬の肥育飼料として絶大な効果を見い出し、強力な騎馬軍団を形成。使役牛・肉牛としての他、仏教により当時伝えられた乳製品も生産し宮中に納めた。
 「酪」「蘇」「醍醐」などであり、宮中では不老長寿の秘薬として珍重された。仏説「涅槃教」(ねはんきょう)にその製法や殺生をせずに共存できる酪農の運営理念が記されている。
 当時、宮中は諸国に「諸国蘇貢の令」を発令し、諸国に「乳戸」という出先機関(集乳所のような)を設け、乳製品を宮中に集めた時代もある。
 この肥育技術の伝統は戦後の日本の酪農や畜産に多大な影響を与えた。
 そして、宮中の食文化であった「ぶと」などを新田の食文化として取り入れ、次第に庶民の食として定着。伝えられた様々な調理法や食文化を混同、変化、簡略化しながら次第に麺化。
 呼び方も様々になり、またその変化したものが他国に伝えられ、さらに独自の料理として変化、定着したと思われる。さらに宗教的影響で四つ足、生臭ものを忌み嫌う風習が定着すると同時に、鰹節の食文化が伝わると現在のような麺を茹でて出汁をつけて食べる物に変わる。
 それまでは禽獣の肉などと一緒に煮込んだり、肉等を餡として包んだ物を食す料理法だったと言われる。
● 価値観・イメージの変化
 しかし貴族階級の社会では最高級の料理も、武家や一般庶民の間では次第に米の次のもの、米の無い時の代用食、などとして解釈されるようになる。
 それは、戦の功労に対する報償や、家臣として召し抱える報償が全て米(石数)、ないしは米の生産能力を保証する領地、だったことから解るように当時の価値基準は米だったからである。
 それが後に、米の取れない貧しい山村の田舎料理として残ったため、今のようなイメージとして定着。さらに戦後の観光コマーシャリズムによって「武田信玄公が考案した米のない時の救荒食」というイメージが出来上がった。
● その味わいと調理法

 現在のうどん・そばなどの麺料理との相違点は、うどんなどは咽喉越しの良い麺の食感を、出汁の風味で味わうものといったものだが、「ホウトウ」は、麦の粉そのものの風味・うま味を丸ごと、他の具のうま味と解け合わせて味わう物。だから麺を茹でずにそのまま煮込む。そうでないと「ほうとう」のうま味は出てこない。
 材料は野菜・肉・魚・・・いろいろ。
 体が暖まる料理なので寒い時に食べる事が多かった。ゆえに寒いとき手に入る材料が主流。大根・白菜・芋、そして貯蔵できる緑黄色野菜として当時唯一の物、かばちゃである。
「うまいもんだよ、かほちゃのほうとう」という語呂にもなっているが、かぼちゃを料理するという意味ではなく、かぼちゃが当時の大切な貯蔵食糧であり、滅多にお目にかかれなかったものだったからである。
 当時、肉食は盛んだった。牛、馬、鹿、猪、狸、狐、兎、熊・・・。
 鳥の場合は、雉、山鳥、コジュケイ、うづら、鴨・・・最高級はなんと鶴!
 魚の場合、最高級として扱われたのは鯉。
 鮎、うぐい等の小魚は、いろりで焼いて燻製にし、貯蔵しておき、必要に応じ一緒に煮込むと良い出汁が出る。高級に作る場合「安平」(ハンペンの原型)を入れることも。
 油で野菜や肉を炒める。
 甘みが出るように強火の高温で。
 水(出汁)を入れ、煮え立ったら「ほうとう麺」を入れ、具とともに麺も煮えたら最後に味付け。
 当時は塩か醤(ひしほ。おなめ、後に味噌に)、高級な場合、醤の上澄み(醤油の原型)で。

       (新田乃庄・社長)